歩く。
歩く。
赤く染まった世界で独り歩く。

視界を覆うは――辛うじて投げ出された幼い――否、あれは瓦礫。そう瓦礫だ。
耳を劈くは――「…っけて、この子を助けてくださ―――」「お母さーん、お父さ―――」
――否、何も聞こえない。
届く筈が無い。
だって、この耳が捉えるは滾る劫火、その爆ぜる音で占められている。

歩く。
一体自分は何処へ向かって歩いているのだろう。
辺り一面は赤、紅、朱。
今立つ世界に平穏とか秩序とか、当たり前にあったと思ってたものなんて燃やし尽くされた。
ただ一つ、煌々と、と表すにはあまりに禍々しい黒い太陽が赤い空に佇んでいた。

息が苦しい。
この肺は果たしてまともに活動しているのだろうか。

「は、はは、ははははははははは」

ああ、笑いたくもなるさ。
一体コレは何だって云うのか。
現実感が無い?
違う、この軋むような痛みから意識を手放せば自分はきっとそこで終わる。

いっそ夢だったら、なんて甘えは毛頭ない。
でもこの理不尽ぶりはやりきれない。
例えば自分が飛行機に乗っていたら、例えば家の近辺に原発があったなら。
確たる要因があれば襲い来る不幸がどんなものでも捌け口は用意されている。

だがこれはどうだ?
ここら一帯は平和すぎるのが悩みに上がってしまうほど平和だった。
多くの自然に囲まれ、友達と学校へ行き、遊び、暖かい家で両親と一日を終える筈だった。
突然、あまりにも突然。

親といえば、何よりも先んじて自分を逃がしてくれた父と母はどうなってしまったのか。
思い出そうとしたが頭に映像が記録されてない。
ただ「走れ!」という言葉に従った憶えはあった。
それに続く崩壊の音。
なら、もう――――薄ら寒い考えを頭ごと振り払う。

今は進もう。

幽鬼のような足取りで進んだ先。
どこまでも地獄に等しい光景にいつの間に此処まで近付いたのか黒いアナが交じっていた。
……?自分は何故あれを孔なんて形容したのか。

「キミ!!」

声が、まるで切り裂くような声。
ハッと我に返った気がした。やっと地に足が着いたような感覚。
声の先には温度差による陽炎ではっきりと見とめることはできなかったけど人影はコートらしきものを羽織っている。
こちらに反応があったのが判ったのか走り寄ろうとして、硬直した。

「こっちに来い!ソイツから離れるんだ!!」

そうして人影が再び駆け出してくる。
ソイツってなんだ?
まったく、こんな時だってのに子供の好奇心というヤツは。
人影の発した焦燥ぶりを秤にかけることもできず立ち止まったまま振り返ってしまった。

体より先に、精神が凍った錯覚に襲われる。

―――あれは関わってはいけないモノだ。

直感が強く、そう働きかけてきた。
黒くて、昏い……何と言えばいいのか、沼…だろうか。
それは当たっている様で的を射てない。
ソレは黒い孔から滝のように流れているのにも関わらず意思があるかのようにこちらを目指してくる。

そこでやっと理解(わか)った。
自分は直ぐにでも逃げなければいけなかったのだ。

でも、もう、既に、なにもかも、遅かった――――――だからこそ。

俺は、寸手のところまで近付いていた男――ここへきて初めて容姿が判ったが――を突き飛ばした。

「きちゃ……だめだぁぁぁぁーーーーーー!!!」

本当なら俺を掴まえてすぐさま身を翻そうとしていたのだろう。
バランスの取れてない体は子供のタックルでもあっさり飛ばすことが出来た。
その一瞬がやたらスローに見えた次の瞬間。
全てを黒に覆われた。

コマ送りのような時間に垣間見た男の「信じられない」という表情に申し訳なく思いながら。

◇ ◇ ◇

―――ぴちょん

はじめに働いた感覚は耳。
次いで皮膚を伝う水気を感じることが出来た。
やがて耳が捉えるものが雨だと解る頃、目を開けてみる。

曇天の中に陰る太陽。
なんてこと無い光景が凄く尊いものに見える。

まだ生きている、という感覚を持ち得ることは出来なかった。
体の何処もかしこも繋がっているという感じがしない。
目覚めることが出来たのも雨が降っていたからこそだろう。
息を吸おうとしても、ひゅーひゅーと擦れた音が聞こえるだけ。

希望なんてホンの少しも持ち合わせてはいない。
そこでなんとはなしに太陽に手を伸ばそうとする。今なら届くんじゃないか、って。
腕の感覚なんて無い、そもそも腕がまだくっついてるかも怪しい。
それでも、空を仰いだ。

不意に、顔に降る雨の滴を感じなくなり、目の焦点を合わせようと凝らしてみる。

それは男の顔だった。

なんて表情を浮かべているんだろう。
宝物を見つけたような喜び、久方の再開を果たしたような切なさ。
それらを内包して余りある……安堵。
まるで救われたのは男の方じゃないか、と思うほどに。

俺は何か満たされていくような錯覚を覚えながらまどろみに意識を沈めていく。
男の顔に見覚えなんて無かったが突き飛ばした人に似ているな、なんて思いながら。


こうして「   士郎」は一命を取り留めた。
しかし体を代償として俺の心はこの時に死んでしまったのだろう。

――――――――――――それもまた違う。
――――――――――――心と共に「衛宮 士郎」と呼ばれるであろう肉体もこの時、滅んでいた。


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