眼を覚ましたその日から、私はずっと鬼だった。

 

誰から生まれたのか、何所からきたのか、そんなことは知らない。

 

両親はいなかった。

 

家族と呼べる存在、その概念を知らなかった。

 

ずっと孤独に生きてきた。

 

ずっと・・・そう、ずっとだ。

 

気が向けば人家を襲い人を喰らう。

 

衝動を押さえ込もうとは思わなかった。

 

彼に・・・出会うまでは・・・。

 

 

 

 

狂鬼に酔いし武士の笑み

巻之壱:[巴:逢坂の関]

 

 

 

 

 

夜気が満ちる中でも山は延々と連なっていた。

 

緑を絶やすことなく、神気を存分に孕みながら、変わり往く四季を映す最高の鏡として木曾の山中にそれは君臨している。

 

これまでそこは私の家であり、庭であり、揺り籠でもあった。

 

寒いときは暖を与えてくれ、暑いときはひと時の涼しさを私に授けてくれる。

 

衣食住を与えてくれる最高の僕、私の力の素となる最高の王。

 

それが山だった。

 

 

 

だが、これからは違う。

 

私にはもう住むべき屋敷がある。

 

着るべき服がある。

 

人ではない、食べるべき食事がある。

 

ここでの生活に慣れてゆかねばなるまい。

 

山を去ること。

 

人と交わること。

 

日から逃げぬこと。

 

どれもこれも初めてのことで、苦痛しか呼ばないもので・・・。

 

正直、不安のほうが大きい。

 

だが、私が選んだのだ。

 

ここで生きていくと。

 

木曾の人里にあるこの屋敷で彼とともに生きてゆくと。

 

オオォォォォン

 

狼の遠吼えの声が聞こえる。

 

呼んで・・・いる。

 

帰って来いと。

 

おまえのいるべき場所はそこではないと。

 

「ごめんね・・・。」

 

眼前には黒々とした山が聳え立っている。

 

この山の何処かから呼んでいるのだろう。

 

私の真の理解者が誰なのかを示すために。

 

私を本当に受け入れてくれるのが誰であるかを知らせるために。

 

「おまえ達のいいたい事はわかってる・・・。」

 

夜気が身にしみる。

 

昼の疲れが癒えていく。

 

「私は受け入れられない。 狼と兎は同じ穴には住めないから・・・。」

 

捕食者と獲物。

 

絶対に調和することのない自然構造。

 

「だが・・・わかれ。」

 

私は人と生きたいわけではない。

 

私は・・・一人の男と生きたいだけなのだ。

 

一匹の牝として。

 

一人の・・・女として。

 

そのためならば労を惜しむつもりはない。

 

それによってこの身体が灰になろうとも。

 

それによってこの世が滅びようとも。

 

私は・・・。

 

そこまで考えたところで人よりもはるかに敏感な私の耳が客人の到来を告げた。

 

足音だけで彼だとわかる。

 

 

「入るぞ。」

 

ほら、やっぱり。

 

今日はここにきてはダメだと告げたのに。

 

皆が気づくかも知れぬからなかなか会いに来れぬと、そう自分でも言っていたのに。

 

私がここにかくまわれてから毎日あなたはここに来る。

 

「好きにしろ。」

 

こみ上げてくる笑みを心の中に押さえ込み、障子が開くのを待つ。

 

聞く必要などないのに。

 

私があなたを受け入れないはずがないのに。

 

わかった上で、あくまであなたは私を焦らそうとする。

 

意地悪な人。

 

世界中の誰が拒絶しても、私はあなたを拒絶しない。

 

世界中の誰があなたを見捨てても、私はあなたを受け入れる。

 

だが、外ではそれでも少しの時間がすぎた。

 

ゆっくりと私を焦らし、暫く時間を置いて、突然入ってくる。

 

いつもの事とわかりつつ、私の心は張り裂けそうになる。

 

「そうか。では失礼する。」

 

他人行儀な言葉。

 

障子の向こうで頭を下げているのが蝋燭の薄い光越しにわかる。

 

 

カタン。

 

 

小さな音とともに障子が開く。

 

ああ。

 

この瞬間をどれほど待ちわびたことだろう?

 

山でいたころならば逢いに来ればすぐに顔を見ることもできたのに。

 

今ではこれほどに狂おしいときを経ねば逢えぬ。

 

そして、待ちわびていたにもかかわらず、なぜ私はそちらを見ることができないのだろう?

 

「巴・・・。」

 

背後から聞こえる声。

 

ああ、それは我が名。

 

汝が与えし至高の名。

 

「駒王丸。・・・なぜ来た?」

 

それでも私は拒絶しようとする。

 

心では受け入れようとしているのに。

 

口では遠ざけようとする。

 

「え・・・?」

 

駒王丸の戸惑ったような顔が見える。

 

嗚呼。

 

お願いだからそんな顔、私の前に見せないで。

 

心の底では平身低頭。

 

必死になって少年に詫びる。

 

「昨日来るなと言ったろう?なぜ来た?」

 

「だめか?」

 

まるで悪事を叱られた子狼のように落ち込んだ声。

 

何がダメなことがあろうか?

 

もっと早く来てほしい。

 

もっと長く・・・可能ならばずっと、あなたとともにいたい。

 

それでも今日は許されない。

 

「今日は新月だから・・・自分を押さえ込む自信がない。」

 

私の血が、呪われたこの血が最も餓える日。

 

私が最も人から遠ざかる日。

 

「そうか・・・。」

 

心底落ち込んだような声。

 

だがそれに続く言の葉は鬼である私を驚かせ、慄かせるに十分足るものだった。

 

「俺は・・・巴になら喰われてもいいのだがな。」

 

「だめだ!!」

 

つい声が大きくなった。

 

慌て振り返り、そこに駒王丸の顔を見る。

 

黒い髪を後ろでまとめた少年が笑いながらこちらを見ていた。

 

「やっと振り返ってくれた。」

 

いたずらを成功させた子供のように笑う駒王丸。

 

「嫌われたのかと思ったよ。・・・障子なんか開けているし・・・。山に帰りたい?」

 

どっかと腰をおろし普段通りの声で話し掛けてくる。

 

全部・・・全部芝居だったということか・・・。

 

「俺を捨てるのか?」

 

探るようにこちらを見る。

 

知っているのだ。

 

私にそんなことができるわけがないということ・・・。

 

私がもう、彼無しでは生きられないということ。

 

「馬鹿・・・。」

 

不意に胸の奥が熱くなった。

 

喰らいたくて仕方ないのだ。

 

あなたのことを。

 

愛しくて仕方のないあなたのことを。

 

愛しているのと同じくらいに喰らいたくて仕方ないのだ。

 

「巴は俺を食べない。絶対に・・・。」

 

その言葉の自信は何所から来る?

 

ああ、あなたは知らないのだ。

 

鬼にとってこの衝動を抑えることがどれほどの苦痛であるのか。

 

私に今のあなたがどう見えているのか。

 

今の君は・・・まるで丸々太った兎のようではないか。

 

蝋燭の光が灯っただけの部屋に私の双眸はきっと異常な光を見せているのでしょう。

 

紅い、のろわれた血の眼は。

 

今まさにあなたを殺そうとする狂った鬼の目は。

 

私はまだ衝動を完全に制御できない。

 

狼たちが告げたように、私とあなたは今この空間では捕食者と獲物に過ぎないのだから。

 

「おいで、駒王丸・・・。」

 

だが、心とは裏腹に、私は彼を自分の胸元へと抱き寄せた。

 

熱い。

 

人の血がこの身体には流れている。

 

私には絶対得ることのできない血が。

 

「巴、来年、必ずあなたを迎えに来る。」

 

嘘。

 

人の妻は人だ。

 

私はここでいることしかできない。

 

「鬼が人の妻に降ると、そんなことを信じているのか?」

 

「正妻にはできないだろうけど・・・俺は本気だよ。殺されてもあなたを妻にする。」

 

「好きにしろ。」

 

嬉しくて、嬉しくて。

 

私はしばし、空腹を捨てた。

 

 

 

 

 

後に私は狼が山に呼び戻そうとした本当の理由を知る。

 

私は鬼だから。

 

これまでずっと待つことを知らずに生きてきたから。

 

誰を疑うことも知らなかったから。

 

彼らは知っていたのだ。

 

人間の寿命が私よりはるかに短いこと。

 

私がこれからの生活に耐えられないこと。

 

 

 

なのに私は・・・。

 

 

 

このときは浮かれていたのだろう。

 

初めての想いに。

 

初めて知った人のぬくもりに。

 

獲物ではない、対等の存在としての人に。

 

 

 

 

あとがき&単語帳

 

 

『木曾』(地名)

 現在の長野県。鎌倉時代に生きた武将、源義仲の生まれ故郷で、そのため源義仲は木曾義仲とも呼ばれている。(常識?)

 

 

『巴』(人名)

 言わずと知れた源義仲の妻(側室)。正史(平家物語)では怪力無双、才色兼備のすばらしい女性として描かれ、生涯義仲に付き添う事となる。もともとは義仲の家と縁のある武家の娘で義仲の乳母兄妹だが、本作では山の鬼とさせていただいた。この時点ですでに数百歳のようだが気にしたら負け。

 

 

『鬼』(用語)

 吸血鬼ともまた違う、どちらかというと精霊に近い者。巴編の核となる単語ですが実は現時点では作者の中にも明確なイメージは無いらしい。とりあえず現時点で分かっている事としては日の光に弱い、力が強い(並みの人の・・・おそらくは数倍)、人間以上に感情の起伏が大きい・・・こんなものでしょうか?

 

 

『駒王丸』(人名)

 源義仲の幼少名です。それ以上の意味はなし。

 

 

っと・・・こんなものでしょうか?

 

この作品は本編(屍人は喰らう生者の心)の複線的な作品となります。作品的な月姫的部分はさらに減りほぼフルオリジナルですが暫くお付き合いください。

 

どちらも単体として読んでもある程度は分かるものにしようと思っていますが基本的にセットの作品なのであわせてお読みください。