ありがとう

 

 遠野家の夜は静かにふけていく。

7時には食事をし、その後はお茶を楽しみたわいの無い会話を楽しんだ後、

各人が大きな屋敷の自分の部屋へと戻っていく。

その後は、屋敷に朝までの静謐なひと時が訪れるのである。

あとは、お屋敷の森に住む古梟のホーホーという鳴き声と、

見回りの足音以外は何も音がしない。

それが、ありふれた、遠野家の、夜でした。

 

ーとんとんー

自分の部屋をノックする音にびっくりする琥珀。

そう、自分の部屋がノックされるなんて予想外。

「はいはい、秋葉様。どうなさったのですか、

御用でしたらいつもの呼び鈴でよろしかったのに」

そう呼びかけつつ、扉を開けると秋葉ではなく、志貴が所在なさげに立っていた。

ばたん!問答無用で思わず扉を閉めると大慌てで手櫛で髪をととのえながら、上ずった声で

「し、し、し、志貴さん。どうしたんですか、こんな夜更けに」

「あの…さ、どうしても琥珀さんと二人で話がしたくてね。少しいいかな」

脈は…よし、服装は…乱れてない、笑顔は…ばっちり、髪も…OK。

大丈夫、いつもどうりで問題ない、さあ、扉を開けましょう。

「あは〜、なんですか。秋葉様への内緒話ですか。

それとも翡翠ちゃんの秘密が知りたいんですか

あ、ひょっとして私にお情けをかけてくださるんですね、うれしいです」

がちゃりと扉を開く、うん、完璧。

いつもどうり、いつもどうり。これがわたし。

そこにはトレイを持った志貴が申し訳なさそうに待っていてくれてほっとする。

「いいかな、琥珀さん。もし都合が悪いようなら出直「大丈夫ですよ〜お入り下さいな」」

みなまで言わせずさえぎると、袖を引っ張りコタツへと誘う。

手早くクッションをしいて座ってもらう。私も向かいにすとんと座る。

ふふっ、志貴さんは気がついて無いんでしょうね。

私しか居ないお部屋になぜ2個もクッションがあるのかなんて。

ほんとにほんとに朴念仁さんですからね〜。

「さてさて、どんな悪巧みですか。なんでもご相談にのっちゃいますよ。

夜歩きのお手伝いですか、おこずかいの交渉ですか。どーんとこの琥珀にお任せくださいな〜」

いつものペースにいつもの会話、ほら志貴さんも隙をみせ…ない!

志貴さんはやさしい微笑を浮かべながら静かに私の話に耳を傾け、ことりことりとお皿を並べている。

目の前にはお皿に乗ったホットケーキが2皿、ポット1つににカップが2つ。

「あの、志貴さん。これは」

「ん?ホットケーキに紅茶。あ、シロップはどうする」

「たっぷりお願いします、えっ、そうではなくて、どうして」

なんて、迂闊。志貴さんがトレイを持っていることすら気がつかない。

「あ、志貴さん。私がやりますから」

でも、志貴さんは腰を浮かせた私の肩をそっと抑えて座らせると

「いいんだよ、今日はやりたい気分なんだ」

「は、はい。それじゃあ甘えちゃいます」

なんてやさしい目、でも、全部見通しそうな怖い目。

カチャ、カチャ、ガチャ、カチャ…お茶にホットケーキ。

ちょっとだけ不器用な手つきで並べ終わると、

「さあ、手を合わせて」

「あ、はい」

「いただきます」

「い、いただきます」

上目遣いにちらちらと志貴さんをうかがってみる。

けど、隙が見えない、やさしい微笑み。今日に限ってなんて手強い。

「さあ、食べてみて、琥珀さんよりはおいしくないと思うけど」

「いえ、そんな事はありません。

ぱくっ、おいしいですよ」

ほんとほんと、おいしいですよ。ちょっとおこげもご愛嬌。

おいしく作ろうとしたお料理はちゃんとおいしいものなんですよ。

さて、それよりなにより目的を探らなくっちゃ、ご機嫌取りされちゃうのってなんだか変な感じ。

さあ、琥珀、勇気をだして話し掛けるのよ。

「「あの」」

「あ、琥珀さんからどうぞ」

「いえいえ、志貴こそなにかお話があるんでしたよね」

うわずる声、あがる心拍数、ほてるほっぺた、おちつけわたし。

「こんなに準備して、気になるじゃないですか。もうっ」

「そう…だね」

そういうと志貴さんは立ち上がって私の脇にきて突然正座しました。

そのうえ、深々と頭を下げ始めたものですから琥珀大パニックです。

「ちょ、ちょっと志貴さんどうしたんですか、急に。そんなことしないでください」

「いや、こうさせて欲しい、しなくちゃいけないんだ。

ずっと、ずっとこうしたかったんだ」

「わたしはただの使用人です。どうしたんですか、頭をおあげください。

秋葉様に見つかったらどんな事になるか。

志貴さんは遠野家のご長男なんですよ。お願いです」

私は必死にやめるようお願いしたのに志貴さんは聞いてくれませんでした。ひどいひどい志貴さん。

1時間、ううん、2時間あるいはもっともっと長かった気がしました。

後から思いだすとお茶があったかかったのですからせいぜい5分だったのでしょう。

永遠とも思えた時間がすぎると、志貴さんはやっと続きを話してくれました。

頭をあげるとまっすぐに私の方を見て、静かに、染み込むように語ってくれました。

「謝りたかったんだ。謝って済むことじゃないけど謝りたかったんだ。

あの時、あの部屋からただの一度も遊びに連れて行けなかったこと、

僕たちだけが、笑って走り回れたこと、

リボンと引き換えに琥珀さんが支えを失ってしまったこと、

再会したとき、琥珀さんと気がついてあげられなかったこと、

そして、

ほんとの琥珀さんはこんなに泣き虫なのに、今まで気がついてあげられなかった事

ほんとの琥珀さんはこんなに弱いのに、今まで守ってあげられなかった事」

なにを言ってるんでしょう。

そんなの私がお姉さんだから、翡翠ちゃんのためにやりたくてやったこと。

そんなのぼくねんじんの志貴さんにはなから期待してないこと。

そんなの生まれたときからほんとはきまっていたこと。

そんなの…

「(ぐすっ)あ、あは〜、

(ぐすっ)何をいっているんですか〜

(ぐすっ)そんなことありませんよ〜」

ほら、見てくださいよ。こんなに私は強いんですよ。

どこが、弱いですか?どこが泣き虫ですか?

でも志貴さんは全部お見通し、私の肩をそっと引き寄せました。

力の入らない私の体は、すとんっと志貴さんの胸の中に落ちちゃいました。

「いいんだよ、ほんとの琥珀さんはこんなに泣き虫なんだから」

「(ぐすっ)泣き虫じゃありませんよ」

「泣き虫だ!」

「(ぐすっ)ちがいます!」

「絶対泣き虫だ!!」

「(ぐすっ)そんなことありません!!」

「絶対絶対泣き虫だ!!!」

「(ぐすっ)ちがうっていってるじゃないですか!!!」

「じゃあ泣き虫じゃないね」

「(ぐすっ)泣き虫です!!!!」

あ…わたし、いま、泣いてるんだ。

でもなんで?翡翠ちゃんが悲しい目にあってないし

おかあさんが死んだわけじゃないし

秋葉様が怪我されたわけじゃないし、なんで?

なんで?なんで?なんで?なんで?なんで?なんで?なんで?なんで?なんで?

なんで?なんで?なんで?なんで?なんで?なんで?なんで?なんで?なんで?

なんで?なんで?なんで?なんで?なんで?なんで?なんで?なんで?なんで?

ああ、判った。目の前のこいつが悪いやつなんだ。

わたしを泣かせているのはこいつなんだ。

ゆるさない、わたしを泣かせるのは許さない。

「なんなのよ、一体あなたは?何様?女の子を泣かせるなんてひどいじゃない。

なんだ、あなた志貴ちゃんじゃない。ちょどいいわ、前から志貴ちゃんにはいいたいことがあったの。

い〜い、よく聞きなさいよ。

こ〜の朴念仁、わからずや、八方美人、絶倫超人、にぶちん、変態、ぼんくら、ねぼすけ、おんなたらし、無節操、ぽんこつ、女の敵…

こうしてやる、こうしてやる」

ぽかぽかぽかぽかぽかぽかぽかぽかぽかぽかぽかぽかぽかぽかぽかぽかぽかぽか

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ぽかぽかぽかぽかぽかぽかぽかぽかぽかぽかぽかぽかぽかぽかぽかぽかぽかぽか

両手ぐ〜でずっと悪いやつを退治していたら、ちょっとすっきりしました。

そろそろ降参するかなと思って見上げると優しい眼差しが上から私を見守っていました。

あれ、何で志貴さんがこんな近くに?

ぼーっと考えていたら今までのこと思い出しちゃいました。

ほっぺが真っ赤になちゃいまして、志貴さんにみられるのが恥ずかしくって、隠すために志貴さんの胸に顔をうずめちゃいました。

ほっぺの赤いのが直ったらうまく離れるつもりだったのに、志貴さんッたら私の頭を優しくなでるんですよ。

信じられない。どんどん、赤くなるじゃないですか。信じられない。

そのうえ、またとんでもないことを言い出したんです。

「いきなりでごめんね、このままでいいからもうちょっとだけ聞いて欲しい」

なんですって、このままって、このままのこと?

そのうえ、もうちょっとって、今度はなんなんですか?

いやだ、上を向いたら今の顔をみられちゃう、いやだ。

だまって、志貴さんの胸にうずまっていたら、今度は暖かい声がわたしに降り注ぎました。

「リボンで僕を支えてくれてありがとう

この屋敷でぼくを待っていてくれてありがとう

いつも僕の健康を気にして本当にこまやかな食事を用意してくれてありがとう

ぼくの弱いからだのために医学を覚えてくれてありがとう

秋葉をずっと支えてくれてありがとう

翡翠を大事にしてくれてありがとう

ほんとうに、感謝している」

ああなんて、ひどい人。ひどいひどい志貴さん。

だって、そんなこと言われたら、涙が止まらないじゃないですか。

女の子を泣かせると責任をとらなくちゃいけないんですよ、志貴さん。

罰として私のしがみつき枕になってもらいます。

わたしはしがみつき枕にぎゅっとして思いっきり泣いちゃうんです。

それにしても、今日始めて知りました。

男の人の体温ってほんとは安心できるものなんですね。

 

そのままいつまでも私の涙は止まらなくって志貴さんはいつまでも私の頭をなでてくれました。