山の中腹に位置する諏訪殿の舘。

出迎えに出たものたちの中に胡蝶はいなかった。

だが、それも仕方ない事らしい。

招かれて来た以上、いくら家来衆の一人に過ぎないとはいえここでは諏訪殿の方が主となる。

逢いたければ、自分で逢うしかない・・・らしい。

久方ぶりに人の世のしがらみを、煩わしく思った。

狂鬼に酔いし武士の笑み

巻之漆：[巴：射]

精神は、極限まで研ぎ澄まされていた。

私の眼は世界と同化し、ただ一つの的、流れ落ちる滝の、さらにその向こう側をじっと見つめる。

通常では考えられない七人張りというとんでもない強弓と、番えられた鋼鉄造りの矢。

それら全てが自分と同一となるまで、ゆっくりと時を待つ。

急ぐ必要は無かった。

矢は一つしかないが、普段どおりに射れば貫けぬものなど存在しない。

どうどうと流れ落ちる滝の飛沫が顔にかかり、数滴の雫となる。

いくつかの雫は額から頬へ、頬から顎へと伝い落ちていた。

その雫の内の一つ、右頬を伝う雫が顎先から離れるその瞬間を、時と定めていた。

「・・・・・・。」

じりじりと、時は過ぎる。

その中にあり私は一歩として動くことなく滝壷の前に立ちつづけていた。

つわものたちの視線が、痛いほどに感ぜられた。

「・・・・・・。」

雫は顎先に達しても、そこからなかなか落ちようとしない。

いつまでも大きな雫のまま、私の顎先で留まりつづけ、私の心をかき乱す。

それでも、やがてその時は来た。

「・・・破ッ！！」

雫が顎先を離れるその瞬間、私は脚力の限りを尽くして空中へと舞い上がる。

灰燼が辺りに散り、「おぉ！」というどよめきが上がった。

その声を眼下に聞きながら木々を越え、なおその上。

天空を、目指す。

「この矢、ただ一矢にかける。我が一撃、貫かぬものは無く、貫けぬものは無い。八幡台菩薩の名のもとに、駈けよ！鉄騎矢！！」

跳びながら吐くのは、わざとらしく仰々しい呪詞。

ちょうど三小節あるのでその気になれば妖気を封ずることも出来ようが、生憎とこの科白には韻が踏まれていない。

今から射ると、そう宣言しているに過ぎなかった。

十分な視界を確保しつつ、姿勢を整える。

そのまま、心に見た岩の的の位置を掴む。

―――中れ―――

願うのは、その一事。

想うのは、ただ一人。

引き絞られた弓はきりきりと鳴り、力を蓄えられた鋼の矢は今にも的へ向かって飛び掛ろうとしている。

そして――

――ビュオウ

凄まじい咆哮と共に、放たれた矢は舞い散る木の葉を巻き込みながら一直線に滝へと向かっていった。

空を裂く音。

弓鳴り。

さらには一瞬の静寂の後のガツンという鈍い着弾音。

さまざまな音が絡みあい、森の静寂が破られる。

放った矢は、一条の光となって的を射抜いていた。

だが、現実認識の遅れからか拍手は無い。

誰も彼も、皆ぽかんとして滝と、そこにつきたてられた一条の矢を眺めている。

「・・・これで、宜しかったでしょうか？」

その中央に降り立ち、訊ねる。

その頃になってようやく事態が飲み込めるようになってきたのか、それとも人の言葉で正気に返ったのか、周囲のざわめきはどよめきに、そしてより大きな喚声へと変わっていった。

それは、義仲や胡蝶にとっては当たり前であるはずの私の怪力も、こちらでは十分に異常事態であるのだと思い出させるに十分な、割れんばかりの喚声。

誰も彼もが手を叩き、振り返った私を暖かく迎えてくれる。

中でも舘の主である諏訪殿などはまるで狐に摘まれたような表情のままに周りに流されるようにして大きな両手を叩いていた。

そのことを喜び、主のほうへと振り返り…そこで異常に気付いた。

これほどの喧騒の中にあって、我が主――義仲だけは何処か遠くを眺めている。

囲いの輪を何とか抜け顔を覗くが、その表情から彼が何を考えているかを悟る事は出来なかった。

どうやら怒ってはいないらしいが、決して笑っているわけでもない。

形容しがたい表情のまま、義仲はじっと見返してくる。

「あの・・・。」

「・・・・・・。」

沈黙に耐え切れなくなりこちらから口を開こうとしても、彼の口は一文字のままであった。

抱擁が欲しいとは、言わない。

ただ一言、褒美の言葉が欲しかった。

なのに、結局義仲は何も言わずそのまま立ち去っていってしまう。

「・・・・・・あ・・・。」

その背中――彼へ向けて伸ばしかけた手を、戻す。

――少し、やりすぎたのだ――

そう思った。

山下の屋敷であるならばともかく、高々家来衆の一人である諏訪殿の前で本気を出す必要など無かった。

放たれた矢は滝の流水を潜り抜け、あまつさえその向こう側にある岩の的までをも打ち貫いてしまっている。

有り得ないとか、そんな話で片付けてよいはずも無い。

見せられる力と、使える力。

見せてもよい力と、使ってもよい力。

いつも義仲が口にし、自分でも徹底してきたつもりだった。

それが久方ぶりに鬼の力を出しても良いと言われたから張り切ってしまい――この様だ。

本当に、自分で自分が嫌になる。

「・・・・・・はぁ・・・・・・。」

未だに続く喚声を背にしながら、溜め息を吐く。

最早そのような喚声など、どうでも良かった。

有象無象の喚声が欲しかったわけでは、無い。

義仲の喚声がもらえないならば、ここに留まる事の意味さえ失われる。

それに考えてみれば、鬼の力を使った時点で反則的だったと言えなくも無いな、などとやくたいも無い事を考えながら振り返る。

「・・・！！」

咄嗟に顔を引いてしまった。

目の前には、女の顔。

美しい婦人とまともに目が合っていた。

距離は凡そ一尺。

うちきを羽織った婦人は扇をかざす事もせず、たおやかに笑っている。

簪が、シャラン、と音を立てた。

「見事な射でした。流石ですね、巴様。」

ありきたりな賞賛の言葉と共に婦人の手自ら差し出されたのは一枚の絹織りの白布。

一瞬誰であるかが分からずに、どぎまぎしてしまった。

だが、よくよく考えてみればその声には聞き覚えがある。

「胡蝶･･･なのか？」

肌には白粉が、唇には紅が、それぞれに綺麗に塗られていたが、少なくとも声は彼女のものだった。

それでようやく、数年前に別れたきりまだ一度も彼女と顔を合わせていなかったことも思い出す。

本来の筋を通そうとするならば真っ先に訪れるべきだったのだろうが、面と向かって懐かしがるのも憚られて後回し後回しになっていたのだ。

「お久しぶりです、巴様。心身ともお変わりなきようで、安心致しました。」

「・・・ああ・・・。」

少しはにかんだように笑う胡蝶の手から差し出された白布を受け取り、顔を拭う。

薄い布は肌触りがよく、顔についた雫を綺麗にふき取ってくれた。

「暫く待っていたのですが、いつまでたってもこちらに参られる様子が無いゆえ･･･。」

来ちゃいました、と。

以前では考えられないほどに明るい声で、胡蝶は言った。

何か自分の事が馬鹿らしくなって、薄布から顔を上げる。

見た事も無いようなとびっきりの笑顔と、目が合った。

「ありがとう、胡蝶。・・・お前は変わったな。誰だか分からなかった。」

「そうでしょうか。」

私の言葉に、胡蝶は軽く小首をかしげて答えとした。

その仕種にも以前は無かったしなのようなものが見受けられる。

私が言うのもなんだが、男と共にいれば・・・という奴なのだろう。

薄布を返すとき少し手にふれたが、以前は骨ばっていた手も微かにふっくらと肉付きが良くなっている。

「変わった。その･･･何と言うのだろうな、女らしくなったのだと･･･思う。」

たどたどしい口調になってしまうのは、自分の変化と比べてしまうからだ。

駒王丸と出会ったことで悪い方向に壊れてしまった私と、諏訪殿と出会ったことで良い方向に壊れる事ができた胡蝶。

形の上では私が上にいるけれど、後ろめたく思うのも、やっぱり私。

「ならば、主様のおかげで御座いましょう。あ、でも、巴様にとっては良くない事、でしょうか？」

「そんな事は無い。こんなところにまで出向いていると言う事はまだ武芸にも身を入れているのだろう？ なら、少しの変化は女子としてよいものだろうと思う。」

そう言っていただけると気が楽になります。

そう言って、胡蝶はまた笑った。

本当によく笑うようになった。

口にこそしなかったものの、私はそんなことを感じていた。

声をあげて笑うだけではなく、笑っていないときでも目元や口元が仄かに笑っているのだ。

もしかすると、幸せがにじみ出ているのかもしれない。

考えてみれば本人には自覚がないというところもどこか胡蝶らしかった。

「ありがとう御座います。巴様よりそのようなお言葉を賜る事が出来ようなど、よもや考えた事も御座いませんでした。」

ぺこり、と頭を下げられる頭。

以前はぶっきらぼうな印象しかなかったと言うのに、今の胡蝶の仕種は愛らしさを振りまいているように思われる。

つられるようにして、私も少し笑った。

その笑いに違いは無かったと、信じていたい。

「では、また後で窺う。」

「あ、はい。お待ちいたしております。」

そして､このまま終わりにすれば元主と元従者のひとかどの会話に留まったであろう会話は一端の収束を向かえる。

だが、仮にも狩人の身形をしていた身。

最終的に興味があるのはやはり弓のことらしく、彼女は人が引くにはあまりにも大きく太い私の弓を、興味深げに眺めている。

思えば子狼の様子もこんな風だった。

興味の対象に食いつこうかそのまま逃そうかを思案している顔。

「あの、巴様･･･。差し出がましい事であろうとは思うのですが･･･。」

そして､一瞬の迷いを断ち切った彼女が選んだのは、とりあえず匂いをかいで見る事だった。

まあ、それはそれで胡蝶らしい。

慎重ととるか臆病ととるかは人によるのだろうけれど、鬼を相手にしているのだから臆病すぎるぐらいでちょうどいいのだ。

「この弓か？」

「あ・・・はい・・・。まさか妖力もなしに岩を貫いてしまおうとは思いも致しませんでしたので・・・えっと、これは一体どのようにしてお造りになられたものでしょうか。その、私には、どうしても得心しかねるので御座います。」

弓を眼前に差し出してやると、胡蝶は面白いぐらいにうろたえた。

このようなところだけは、変わっていない。

必要以上に冷静なくせに、不意打ちや先読みには驚くほど弱いのだ。

もし彼女の元に文が届くような事にならずとも、彼女が策士として軍を率いるような未来だけは絶対に無かったに違いない。

「弓も矢も私専用に作らせた特別性だが・・・少なくとも妖力の類は確かに必要ない。何しろ七人張りだ。的に垂直に射ることさえ出来れば、後は自ずと刺さる。」

先ほどの射に使った弓を胡蝶の手に渡し、その強度を確かめさせる。

試みに少し引いていようとしたようだが、弓はぴくりとも動かなかった。

馬の尾を編んで紙縒りのように締め上げた弦はたおやかな胡蝶の指で弾かれるたび、ピン、ピンという琴の音のような澄んだ音を立てている。

「むぅ・・・。」

「ははは、鍛錬を怠っていたのではないのか？胡蝶。」

「さ、左様な事は御座いません！」

「あ、こら、待て！」

少しからかうと、今度こそ本腰を入れて引こうとする。

だが、流石にそれは止めざるを得なかった。

もしものことがあっては、大事に障る。

「動かせるわけが無い。馬が二頭がかりで引いても動かせなかったんだぞ。元が樫の木に『弾性』の妖術を施した木だから並みの人間では引く事は愚か弾く事すら難しい。･･･女である事を思えば、十分だよ。あれだけの音を鳴らせられれば。」

「そう･･････なんですか。｣

常人であれば引こうと考える事すらしない、四天王や義仲でさえびくともしない禍弓を、それでもまだ未練があるのか胡蝶は睨みつけていた。

もしかすれば、いつかはこれを引けるぐらいの猛者になろうと思っているのかもしれない。

胡蝶の場合、妖力を使えば何とかなってしまいそうで怖い。

「うん。まあ、ほどほどにな。」

気がつけば、頭を撫でていた。

昔の胡蝶であれば絶対的な拒絶を喰らったであろうその動作も、今ならば許してくれそうな気がしたのだ。

だが・・・。

「な？ 何を・・・？ え？！ ちょっ、ちょと、巴様？！」

まるで悪がきに掴まった兎のように、胡蝶が必死になってもがく。

どうやらまだ、そこまで許してくれるつもりはなかったらしい。

「まあ、いいだろう。年下なんだし。」

「巴様よりも年上の女子など、少なくとも人の中にはおりませぬ！ 懐かしさ手伝ってのことではありましょうが、御戯れが過ぎます！」

きょろきょろと辺りを見回しながら、真っ赤な顔で捲し立てる。

それでようやく気付いた。

よく考えれば、周囲のものは皆彼女の家来衆なのだ。

大恥、とまでは行かずとも、やはり恥ずかしいものだろう。

「あ〜、悪かった。すまない。」

「猛省してください！ ここでは私が主です！」

「うん、そうだったな。」

言いながら、頭へと右手を伸ばす。

身長が低いから見えていないらしい。

胡蝶は昔の調子で、懇々と説教を続けている。

･･････結構、楽しかった。

あとがき＆(以下略)

『七人張り』(用語)

　弓の張り方として設定したが、そんな弓が存在するはずもなく、もちのろんで造語。通常三人張りと呼ばれる弓が強弓と呼ばれる弓で、この時代の猛者はふるってこの型のものを使用していた。作中で樫の木に妖術(魔術)を施したものであるとしているが、これは作者が適当な木を見つけられなかったせい。（強化＞弾性って感じ？)

『八幡台菩薩』(用語）

　源氏の氏神。ただ、書いている途中で気がついたのだがこれを定めたのは源頼朝であり、巴御前はその敵対者、源義仲の愛妾。かの地では山岳信仰が基本だったという資料もあるし･･･失敗だった、かなぁ･･･？

『鉄騎矢』(技)

　空中高く飛び上がって最大限にまで引き絞った鋼鉄製の矢を放つという大技。ただ、作中で本人も言っている通りこの技は百パーセントはったりで構成された技である。少し考えれば分かる事だが、距離的にも力学的にも、地に足をつけて射たほうが強い矢が射てる。まあ、その程度の事は些事としてとらえられるぐらいの強弓だったのでしょう・・・多分。

『妖気・妖術・妖力』(用語)

　それぞれ小源（オド・空中に拡散している魔力。枯渇庭園で枯渇しちゃうあれ）・魔術・魔力（マナ・体内で生産されるほう）って感じでしょうか？ 鎌倉編（正確には平安）での呼び名はこれで統一させていただきたいと･･･・・・・・・これまでに既に違うの使ってるなんてことは無かった・・・はず(未確認）

いつ書きあがったのかも忘れるほど昔に書きあがっていたのになぜか投稿していなかった一品。

受験不合格＞就職の流れにより更新ペースがた落ちしそうですが、見捨てないでください。（既に誰も読んでいないとも言う)