これだけは・・・絶対にもっておきなさい。

落としたら駄目。

誰かに見せても駄目。

自分の命と同じぐらい、これを大事に取っておきなさい。

そして覚えておいて。

もしあなたが死んだとしても、これさえあればあなたは生きていられる。

脳ではなく、身体で覚えるのですよ。

そう言って母に渡されたのは、何の変哲も無い小さな石の欠片だった。

屍人は喰らう生者の心

巻之伍：[???：幼稚縁路・小楽性賭]

幼いころからこの世界を憎んでいた。

何故こんな家庭に自分を生んだのかと思い、その鬱憤は常にこの世界の摂理、そしてその延長である神へと向けられた。

地方の神社の宗主の生まれでありながらヤクザ者の父と駆け落ちしてまで結婚し、結局自分の身を切り売りしていた母。

彼女は私の恨みの対象となることは無く、私にとって悪いのはこの世界とそれを構成する大人たちだった。

こう言うとまるで中学とか高校とか、そんな時代の話をしているようだけれど・・・そうじゃない。

これは全部私が幼稚園に通い始めたばかりのころの話だ。

当時私は幼稚園教員の一番の頭痛の種だったと思う。

父は誰が見てもそちら側の人間といった風情を醸し出していたし、母は朝早くから夜遅くまで仕事に出ていて家にいることはほとんど無かった。

だから必然的に私は幼稚園で夜遅くまで教員と共に過ごしていた。

幼稚園で泊まる事もしばしばだった。

それでも、もし私が普通の子と変わらない善良な子供であれば教員たちは家庭事情の複雑な子として取り扱い注意のレッテルを張るだけで済んでいただろう。

だが生憎私は普通に善良な子供とはあまりにもかけ離れた存在だった。

何故世界は私を不幸にするの？

毎日のように教員にそう質問しては困りはてる教員を見てけたけたと笑う。

そんな子供だったのだ。

自分では無理も無いと思う。

周囲の誰も私のことを本当に理解しようとしてはいなかった。

あるものは偽善者の面を被り私を哀れみ、またあるものは私の家庭環境を蔑みあんな親になるな、などともったいぶった説教を垂れた。

当然の事とは言え、露骨に私に近寄る事を避ける者もいた。

どれも、私が欲しかった世界ではなかった。

私は哀れみも蔑みもいらなかった。

欲しいのは奇異の者を見るような目ではなかった。

私はただ、普通でありたかったのだ。

凡百の中に生まれ、一介の凡夫として過ごしたかったのだ。

なのに、誰もそれを理解してくれなかった。

友人も、近所の大人たちも、共に過ごしていた教員でさえも。

それでもただ二人、私にとってはもっとも憎まれるべき存在でしかなかった筈の父と母だけが私の悩みを理解してくれていた。

父は私のためになれない敬語を必死になって覚えた。

母は時たま取れる休みの日にはまるで百年生き別れた親子のように中睦まじい家庭を築こうとした。

二人のそれは傍目には滑稽な茶番でしかなく、私の目には二人の笑いが苦しい泣き笑いのようにしか見えなかったけれど、少なくとも二人は私に謝らなかった。

私を哀れまなかった。

私を蔑む事をせず、私を奇異の目で見る事も無かった。

だから私は両親を全力で愛した。

二人もまた私に対し惜しみない愛を注いでくれた。

それは見せかけの幸せ。

私が周囲から浮いている事も、孤立し、排斥されている事も、両親は全て知っていたはずだ。

それでも彼らは全てを取り繕おうとし・・・。

結果、その努力が実を結ぶ事は無かった。

わたしが小学生になってすぐ、父は組どうしの抗争の中で命を落としてしまった。

そしてその日、私たちの家族が何とかして取り繕っていた幸せな家庭という虚像もまた呆気なく崩壊した。

私は学校内で完全に居場所を失い、連日のように過酷な虐めに晒された。

母は水商売の世界ですら職を失い、本当に身体を切り売りするだけの哀れな達磨と成り果てた。

父の葬式すら、まともなものは出してやれなかった。

毎日が、地獄のようだった。

そのころにはもう母親は家に帰ってくる事すら稀で、時と場合によっては一週間家に帰ってこない事さえあった。

ガスを押さえられ、水道を止められ、管理人のなけなしの厚意で差し押さえられる事だけは無いといったようなワンルームの部屋の中では日々の暮らしさえままならず、食事を取ってくる方法も、飲料水を確保する方法も、全て自分で覚えなければならなかった。

偶に家にいても全身から腐臭のようなものを漂わせる母に近寄る事など、私にはできなかった。

母はもう以前の母ではなかった。

子供の前でも平気でタバコを吸い、薬を摂取し、可笑しな幻覚に毎晩のようにうなされていた。

そのころになってようやく、私は母を嫌悪することを覚えた。

理不尽な世界や、連絡すらよこさない祖父、祖母ではなく、母を憎んだ。

侮蔑し、貶し、忌避した。

ありとあらゆる罵詈雑言を並べ立て、家にいない母を詰った。

だが、やがてそれにも飽き、私は小学校に行かなくなった。

ほんの一部の人間との親交だけを深め、さまざまな場所を徘徊するようになった。

そんな生活を送る中、ある人に出会った。

初見。

それが誰かさえわからなかった。

再見。

記憶のどこかに引っ掛かりを感じた。

三度目。

私のほうから声をかけてみたが、途中怖くなって逃げた。

四度目。

やっと、頭の中で一致する記号を見つけた。

その男の名は、御前　雄樹。

母と姉弟の関係にありながら金で買い、辱めた外道。

｢やあ、元気にしているかい？」

その四度目、男がスーツに包まれた腹を突き出していった科白を、私は一生忘れないだろう。

当時極度の栄養失調状態にあった私を捕まえて元気にしているか、など・・・馬鹿げているにも程があった。

当然の結果として私は男との会話を拒み、意味のある会話がなされるようになったのはさらにその次、五度目に男と出会った時だった。

｢そう逃げないで欲しいな。僕は君を迎えに来ただけなのだから。」

会うなり身構えた私に対し、男は柔和そうな笑みを浮かべ、近寄ってきた。

それでも子供心なりに警戒を解かなかったのは眼前の人物の危険性を十分に認識していたからだろう。

男はその事を知ってか知らずか、すぐさま用件に入った。

「お袋、君にとっての婆やがね、会ってくださるそうだよ・・・直々に。」

すぐにでも逃げ出しそうになっていた私を引きとめたのは男の言った婆やの一言だった。

私の知る限りにおいて、二人いるはずの祖母のうち生きているのは一人だけだったから。

｢婆やが・・・私に・・・?」

これまで連絡の一つもよこした事の無かった人物だが、母から聞いた限りで言えばそういうことがあり得ないとは言い切れなかった。

無論、あり得ない事ではないが、限りなく考えられないことでもあったが・・・。

｢あり得ないと思うかい?・・・まあどう思うかは君の勝手だが・・・。」

そこで言葉を切った男は自分の胸に持っていたタバコの箱から一本を取り出し、それに火をつける。

そのまま深々と息を吸い、次の瞬間大量の紫煙を吐き出した。

「拒む理由は無いと思うんだがね、君には。」

雰囲気が、がらりと変わった。

吐き捨てるようにそういうと、あとは憎々しげな瞳で此方を睨んでくる。

その時になってやっと、私はその左頬に大きな傷が入っているのを見つけた。

頬の口寄りから入り始めた傷は耳の一部までを殺ぎ落とし、痛々しげな跡を晒している。

「こっちは傷さえつけなければ少々手荒な事ぐらいしても構わないといわれてるんだ。おまえ、小学校にすら行ってねえみたいだが・・・これがどういう意味かぐらいはわかるよな・・・。」

気付いたときにはもう遅かった。

男は小学生の足でもどこかへ駆け込めたかもしれない限界範囲を大きく侵犯していた。

「来るのか?それとも、また逃げるのか?」

私は素直に、逆らわず、男の後に従った。

弱者が強者に噛み付くにはどうすれば言いか、そのころの私はよく知っていた。

どこかへと連れて行かれる車の中、男は何も話そうとはしなかった。

私も、何も話さなかった。

行き先は長野県。

両親の生まれ故郷。

あとがき&単語帳

『御前　雄樹』（人名）

　主人公の母親の弟。即ち主人公から見れば第三親等の血縁なので結構身近であるはずだった人物。現時点では能力等不明だが頬の傷のおかげで結構強面。

　劇中ではさらりと流されているが相当の外道である。

過去は過去、未来は未来、今は今。

割り切る事ができればどれほどに楽になれるのでしょう？

千帝の過去より今の世まで、連綿と続く一本の紐。

切っても切れない魔法の紐。

今ここで終わらせたい。

そう願うのは本当に、子供の夢でしかないのでしょうか?