落ちてくる。

 

堕ちてくる。

 

遥かなる高み。

 

もはや私の手などとうの昔に届かなくなったほどの高みから。

 

我が身にはもはや、二つの尾しか残されていないというのに。

 

彼の者はいまだ強く。

 

いまだ明く。

 

されど、この現世に落ちてくる。

 

一つは人を救うため。

 

今一つは人を殺すため。

 

 

 

 

 

 

忘獣は彼方より帰たる

巻之伍:[玉藻:血濡れの剣]

 

 

 

 

 

「ふう・・・突然の呼び出しだってんできてみたら・・・この様か。」

 

突然そこに発生した血溜りの中で、一人の男が立っていた。

 

神のみに許された鋼の剣が男の手元で血を滴らせる。

 

が、その足元には骸。

 

百にも及ぼうかという、夥しい骸。

 

その全てが、当然の如く今はもう息をしていない。

 

いや、それはつい先ほどまで息をしていた者達だ、と言ったほうが正しいのかもしれない。

 

少なくとも私とこの男にとって、この数秒という時はあまりに短すぎる。

 

生と死を分かつには、時間がなさ過ぎる。

 

「何故・・・。」

 

ここにいるのかと。

 

そのような言の葉は、口に上る前に消えて失せた。

 

代わりに流れ込んできたのは圧倒的な血の匂い。

 

開いた口から流れ込んだ芳醇な香りが、私の味覚芽を直接刺激する。

 

「・・・嗚呼・・・。」

 

知らず、体が震えた。

 

せっかく封印したのに。

 

せっかく押し止めていたのに。

 

知ってしまった。

 

思い出してしまった。

 

求めていたものが何だったのか。

 

何故これほどに空っぽなのか。

 

「で、だ。かなり腹減ってるらしいんで手っ取り早く結構な数を殺しちまったが、拙かったか?」

 

拙いか拙くないかで言えば圧倒的に拙い。

 

それはどれほどに取り繕おうと人殺しだ。

 

だが、今はそんな事よりも・・・。

 

「ああ、酔っ払ってそれどころじゃないみたいだな・・・。」

 

男の言葉がひどく遠い。

 

頭が重い。

 

左の脳裏に、まるでしこりができたかのような痛みが走る。

 

喉はカラカラに渇いているし、眼に映るものは、その赤を除いて殆どがぼやけている。

 

「好きにしろ。俺は死人に興味はねえし、紅だって鮮度が落ちたものは嫌いなんだろう?」

 

男の放ったその言葉が、最後の堰を切った。

 

手近な所にあった死者の首を掴み、その動脈の吹き出し口、未だ血を流しつづける魔性の門に熱い口付けをかわす。

 

どろりとした感触とともに、枯渇していた魔が急速に体内に広がっていくのが分かった。

 

それと同時に、穢れ無き血の中に微かに含まれていた浄化の能力が私の身にかけられた魔法をゆっくりと溶かしていく。

 

一口啜れば一口分。

 

二口啜れば二口分。

 

投影されていた体は解け、獣としての本性が顔を覗かせる。

 

一人目を吸い終えたとき、私の体には尻尾が生えていた。

 

二人目を吸い終えたとき、髪の隙間から耳が覗いていた。

 

三人目を吸い終えたときには、全身に毛が生えていた。

 

そして、全ての血を啜り、床に散った血の魔力までをも吸い終えたとき、私はもう人の姿をしてはいなかった。

 

それは、同時に自分の犯した罪に。

 

自分の為に流れた血に。

 

終止符を打ったのと同義。

 

クゥオオオォォーーーン  オオオォォーーーン  オォォーーン

 

吼え声が木霊し、またも頭の中がぼうっとする。

 

どのような姿になったとしても言い逃れはできないだろう。

 

私は。

 

先日まで共に暮らしてきた村の人を。

 

殺して。

 

喰った。

 

口の中の赤子が。

 

無数に散らばる転がる骸が。

 

その何よりの証拠だ。

 

だが、それほどに血を吸ったというのに、私の尾は一本も増えていなかった。

 

それは、既にこのような名も無き村人たちの事を覚えているものなどいないということ。

 

私の罪は、この一瞬でなかったことになったということ。

 

「ちったあ元気になったか? 紅。」

 

「ええ。礼を言うわ、須佐。少し楽になった・・・けれどどうしてここに?」

 

口の中に残った赤子の頭が名残惜しかった。

 

先日、どころの話ではなく、つい先ほどまでこの者は生きていた。

 

なのに今は乾ききった屍の玉でしかない。

 

そしてそれも、私が喉を一度鳴らせば消えた。

 

後には何も残らない。

 

何も。

 

悲しみも。

 

魂の欠片も。

 

ただ一つの記憶さえも。

 

「お前に死なれると、我等とて現界が困難になるからな・・・。」

 

「それは結果論。・・・ああ、じゃあ質問を変えるわ。一体誰があなたを?」

 

私とこの男にとって、少なくとも私にとって、村の者の死など、そのような瑣末事は今はどうでもいいのだ。

 

むしろ問題となるのはこの場に神がいるという不条理。

 

そこに理由をつけなければならない。

 

それは私が果たすべき使命だ。

 

「何だ? 俺が助けに来た事が、何か問題でも?」

 

「大有りよ。私は助けを呼んだ覚えは無い。」

 

「は?」

 

今度は彼が絶句する番だった。

 

「どういうことだよ!!俺はお前に呼ばれたって義兄さんから・・・緊急の呼び出しだからって言うから来たのに・・・。まさか・・・いや、そんなはずはねえ・・・・・・」

 

・・・訂正しよう。

 

このように良く喋る状態を、絶句したなどとは言わない。

 

戸惑ってはいるかもしれないが、断じて絶句などしていない。

 

まあ、誰が?という問いには無意識のうちに答えてくれたようだから、本質的にはこれでいいのだが・・・。

 

「そう、月臣が・・・って、それだって無茶苦茶だわ。」

 

そうか、と納得しかけ、やはりおかしいと思い直す。

 

如何に月臣であろうとも、永続的な現世とのかかわりをもつ事などできはしない。

 

そして、かかわりを持ちつづけていられない以上、彼とて私が危険な状態にある事を知る術など持っていない。

 

「そもそも、須佐だって知っているでしょう? 私はあなたたちのいる高の天原には・・・一切、どのような干渉であろうとも、なすことはできないの。」

 

「あぁ・・・そう言えばそうだったな。俺にはよく分からんが、世界そのものを違えることで接点を消した・・・んだっけ?」

 

「そう。どのような干渉も・・・。」

 

言いかけて、気付いた。

 

今ならば、できないことは無い。

 

数日前に作り上げた神ならば、そのようなことも成し得るのかもしれない。

 

なぜならあれはその干渉のためだけに作られ、接点を作るためだけに存在する。

 

だが、そのようなことが、有り得るのだろうか?

 

「菊理・・・?」

 

「はい。」

 

ただの独り言のつもりだったのに、これまで一度として聞く事のできなかった返事が、聞こえた。

 

「私はこちらに・・・。」

 

壁際に、まるで人形のように立っていた姫が、動く。

 

静々と、まるで人間のように須佐の前に膝間付く。

 

「へえ、まだ生きてるのがいた・・・って言うか、お前も神か。」

 

有り得ない。

 

こんな光景は有り得ない。

 

理性が拒否しようとして、だが、目から捕らえられた視覚情報がそれが現実であると告げる。

 

それでもこんな事は有り得ない。

 

なぜなら・・・

 

「須佐乃男ノ尊・・・お初にお目にかかります。我が名は菊理。生者と神との橋渡しをするために生み出されし者。」

 

この姫は喋れない・・・筈だったのだ。

 

「俺は・・・って、もう名前は知ってるんだな。じゃあ俺を呼んだのはお前か、新入り。」

 

「ハイ、私です。我が主には申さず、独断で行わせていただきました。」

 

「何故独断で? 助けを求めるなら先に主に聞くべきだろう。」

 

「目の前に広がるこの光景が理由で御座います。あの状況で呼べば必ず虐殺になる。我が主がそれを許すとは思えませんでしたので。」

 

「ああ、なるほどな・・・。確かに、それは正解だ。那岐や那美ならともかく、俺や武尊がこんな状況に出くわしたら、それは実力行使に出るのが目に見えているからな。」

 

和やかに談笑する二人の神。

 

その言葉に澱みはない。

 

神の言葉に、我々との違いは感じられない。

 

菊理の立ち居振舞いにも、先日までの痴呆症の面影は感じられない。

 

なのに彼等は分かっていない。

 

異常を異常ととらえていない。

 

ああ、それとも私だけが何も知らされていないだけ・・・なのだろうか?

 

「菊理・・・お前、どうして」

 

「これまでの無礼につきましてはご容赦を。天界もこの男のせいで大変だったそうで・・・月臣様より事情は話すなとのお達しを受けましたが故、一計を案じさせていただきました。」

 

言葉を知らぬのではなかったのか、と。

 

問い詰めようとしたのに、言葉は途中でかぶせられた菊理の言葉で途切れてしまった。

 

先ほどまで一言も喋らなかったくせに、目覚めた途端によく喋る。

 

「此度の厄災、天照様が機嫌を損ねただけの事ゆえ気にするな、と月臣様より窺っております。原因はこの男にあるとか。」

 

「おいおい、俺は何も知らなかったんだぞ?それを俺だけに罪をかぶせるのはあんまりだと思わないか?」

 

「お言葉ながら宮廷儀式の最中への闖入など、いかような無礼者とてなさいますまい。ましてやあなた様は始原の神、天照の大御神がお怒りになられるのもごもっともでは?」

 

「ぐ・・・。」

 

だから、余計に虚しくなる。

 

私は主なのに、創造主なのに、菊理の事を何も知らなかった。

 

「・・・そういう・・・こと・・・。」

 

全ての理解は、遅れながらついてきた。

 

あの内気な太陽神が、こんな事を考えつこうはずも無い。

 

画策したのは十中八九月臣だろう。

 

その賢しさゆえに天帝から捨てられたあの神、何年経とうがその性格は変わっていないらしい。

 

「いいわ。要するに、あなたの面倒を見ろってことなんでしょう?」

 

「まあ、要約すればそういうことだろうな。」

 

「そのように窺っておりますわ。我が主。」

 

気が、抜けた。

 

どうしようもない徒労感と共に、抗いがたい眠気が襲ってくる。

 

なぜかと思い後ろを見ると、二本の尻尾がゆらゆらと、吹き込む風に音も無く揺れながら、ふわりふわりと背中を打っていた。

 

自分の尻尾なのに、その感触は思いのほか心地よい。

 

「なら・・・了解した旨・・・伝えて・・・頂戴・・・菊・・理・・・・・・。」

 

重く、閉じそうになる瞼に逆らわず、私は眠りの周期に入っていった。

 

目が覚めたとき、せめてもう少し生き良い世界になっている事を願いながら。

 

 

 

 

 

あとがき

 

ぐでぐでです。

 

どれぐらいぐでぐでかと申しますとこのあとがきを書いている現在において既に初めのころ何を書いていたのかを忘れてしまっているというぐらいぐでぐでなのです。

 

で、あんまりぐでぐでなのでこれまでに登場した読みにくそうな漢字の読みを下にテスト形式で掲載する事であとがきに変えさせていただきます。

 

漢字テスト(ドラッグすると答えが出ます)

燦然>(さんぜん)          売女>(ばいた

飄々>(ひょうひょう)         懐疑>(かいぎ

喜悦>(きえつ)            滑稽>(こっけい

壮絶>(そうぜつ)          傍観>(ぼうかん

躊躇>(ちゅうちょ)          肋骨>(ろっこつ・あばらぼね

孕みながら>(はらみながら)    木曾>(きそ

揺り籠>(ゆりかご)          聳え立っている>(そびえたっている

蝋燭>(ろうそく)           慄かせる>(おののかせる

灰燼>(かいじん)           郷愁>(きょうしゅう

御髪>(おぐし)            国許>(くにもと

戒め>(いましめ)           鳩尾>(みぞおち

捗々しく>(はかばかしく)     軋み>(きしみ

抱擁>(ほうよう)            罅>(ひび

精悍>(せいかん)          抓る>(つねる

癇癪>(かんしゃく)          陥りそう>(おちいりそう

囲炉裏>(いろり)          愕然>(がくぜん

詭弁>(きべん)            跪く>(ひざまずく

翳り>(かげり)            朧>(おぼろ

厚顔不遜>(こうがんふそん)   刎ねよ>(はねよ

憤怒>(ふんぬ)           放伐>(ほうばつ

下賎>(げせん)           乖離>(かいり

嗚咽>(おえつ)           模索>(もさく

鼻腔>(びこう)            堪能>(たんのう

喚起>(かんき)           咆哮>(ほうこう

鍔>(つば)              綴られて>(つづられて

赴く>(おもむく)           火達磨>(ひだるま

踵を返す>(きびすをかえす)  掠め>(かすめ

旋風>(つむじかぜ・せんぷう)    火照り>(ほてり

鳶>(とび)              刹那的>(せつなてき

蝉>(せみ)              翻した>(ひるがえした

彼方此方>(あちらこちら)    靡毒>(びどく

剥き身>(むきみ)          櫛>(くし

凛々しい>(りりしい)       狩衣>(かりぎぬ

拗ねた>(すねた)         窺う>(うかがう

憮然>(ぶぜん)          操立て>(みさおだて

伏礼>(ふくれい)         飛沫>(しぶき

囁く>(ささやく)           霞>(かすみ

諏訪>(すわ)            畏怖>(いふ

崩御>(ほうぎょ)          蛇蠍>(だかつ

鋪愈>(ふゆ)            滾った>(たぎった

均し>(ならし)           擽った>(くすぐった

澱まず>(よどまず)        脅えた>(おびえた

顎>(あご・がく)          兆し>(きざし

嫁ぎ嫁>(とつぎよめ)      濁酒>(どぶろく・だくしゅ

疎ましく>(うとましく)       曖昧>(あいまい

寵愛>(ちょうあい)        爛々>(らんらん

刺繍>(ししゅう)          五臓六腑>(ごぞうろっぷ

仄か>(ほのか)          煌々>(こうこう

齟齬>(そご)            皹>(ひび

憂鬱>(ゆううつ)         敬虔>(けいけん

鬱憤>(うっぷん)         醸し出して>(かもしだして

蔑み>(さげすみ)        睦まじい>(むつまじい

傍目>(はため)          排斥>(はいせき

偶に>(まれに)          侮蔑>(ぶべつ

貶し>(おとし)          罵詈雑言>(ばりぞうごん

柔和>(にゅうわ)        殺ぎ落とし>(そぎおとし

止め処なく>(とめどなく)    煉獄>(れんごく

今宵>(こよい)          顕>(あらわ

驚愕>(きょうがく)        狼藉>(ろうぜき

忌避>(きひ)           骸>(むくろ

夥しい>(おびただしい)    芳醇>(ほうじゅん

拙かった>(まずかった)    堰>(せき

枯渇>(こかつ)         穢れ>(けがれ

微か>(わずか)         啜れば>(すすれば

吼え声>(ほえごえ)      木霊>(こだま

瑣末事>(さまつごと)     如何に>(いかに

須佐乃男ノ尊>(すさのおのみこと)  那岐>(なぎ)     /       

那美>(なみ)          武尊>(たけるのみこと・ぶそん

途端>(とたん)        此度>(こたび

天照>(あまてらす)      闖入>(ちんにゅう

画策>(かくさく)        賢しさ>(さかしさ

窺って>(うかがって)     徒労感>(とろうかん

旨>(むね)            瞼>(まぶた

饒舌>(じょうぜつ)      怯む>(ひるむ

漠然>(ばくぜん

 

 

裏テーマが漢字字典を片手におかないと読めない小説、だったのですが、漢検一級から準二級程度に匹敵すると思われる漢字、全部で149問、いくつ読めていましたか?

 

高校生レベルであれば六割、大学生レベルであれば七割、社会人であれば八割、それぐらい読めればかなり漢字力のある方ではないかと思います。(作者の私も二つほど間違えました)

 

なんとなく感想についてはあきらめの境地に入っているのでここでは私の感情の赴くままに思いっきりあそびたいと思います、では、ひとまずアディオス。