志貴は応接室の扉の前で立ち止まった。
深呼吸を二度。
心を落ち着かせ、この扉を開けた後に自身の内側から来るであろう衝動に対して少しでも耐えられるようにする。
そして、
「失礼する」
志貴はノックをし、扉を開けた。
月光ノ元ニ流ルル風
「兄さん」
応接室にいたのは二人の女性だった。
ソファーに座っている女性と、その後ろに控える形で立っているメイド。
志貴は予想していたような衝動を感じることなく応接室の中へと入る。
「――――久しぶりだね・・・秋葉。でも、残念ながら俺は遠野志貴ではないよ」
志貴は優しい笑みを浮かべながら突然の一言を繰り出した。
「・・・・・・・・は?」
秋葉と呼ばれたその女性は志貴が突然言った言葉に思考が追いついていないようだった。
「今の俺は有間志貴。それは分かっているよね?」
「しかし兄さんは本来遠野の人間です!・・・それほどまで有間が良かったのですか!?」
「―――本当に、俺は始めから遠野の人間だった?」
志貴の静かな台詞に秋葉は表情を硬くした。
「まさか・・・・・」
「本来の名前は七夜志貴・・・だよ」
七夜。
志貴がそれを名乗った意味を秋葉は理解した。
「調査員を派遣して俺の身辺を調べたり、有間の家を脅して俺を遠野に無理矢理呼び戻したり・・・秋葉は一体何をしたいのかな?」
「・・・・何故、兄さんは」
絞り出すような声で問う秋葉に志貴は息を吐く。
「七夜は完全に滅んではいないよ。俺は七夜を最もよく知る人物と七夜の人間と会った」
「!!」
「俺の話はここまで。今度は俺の問いに答えて欲しいんだけど?」
「―――わたしは、また・・・昔のように一緒に暮らす事ができたらと・・・」
「身辺調査と有間家を脅したのは?」
「身辺調査はしましたが、脅すなんて!」
「有間文臣に突然大きなプロジェクトを任せたのはどういう事だ?その直後に俺を遠野に戻せと命令調の文書を送れば疑いたくなるのは当然だ」
「知りません!わたしは・・・ただ」
「申し訳ありません。それはすべてわたしが仕組みました」
応接室の扉が開き、玄関で出迎えた割烹着の女性が姿を見せた。
「―――確かに。秋葉のその命令なら結果的にそう動くな」
志貴は呆れたように息を吐く。
秋葉からのオーダーは二つ。
『志貴を育てた謝礼を有間家に渡せ』
『何としても志貴を遠野家に連れ戻せ』
金を積んで『今までありがとうございました。志貴はこちらで引き取ります』という事はできないし、有間啓子も有間文臣も受け取るはずがない。
「俺の逃げ場を断つという意味でも、有間家にも有効な方法だ。しかし・・・ここに来るまで秋葉の気持ちは何も見えなかったな」
「・・・・・・それは」
「命じたから安心と?そこに思いも何も込められていないのに応じると?」
「っ・・・」
泣きそうな顔の秋葉に志貴は更に言おうとした言葉を抑え、ため息を吐いた。
「―――まぁいい。で、俺が七夜の記憶を取り戻したと知ってもなお俺をここにおくか?」
「勿論です!私の兄は貴方です!」
即答だった。