志貴が家に着いたのは午後10時を過ぎた頃だった。

「ただいま帰りました」

志貴が玄関を開けると家の奥から女性が姿を見せた。

「おかえりなさい、志貴さん。お夕飯は?」

「ただいま帰りました啓子さん。いえ、まだ食べていません」

男との会話の時とは違い、少し余所余所しいが柔らかな笑みを浮かべて女性に返答する。

「よかった・・・文臣さんもまだ帰ってきていなくって、私達もまだなの」

啓子と呼ばれた女性は小さく安堵の息を吐いた。

 

 

 

 

 

 

月光ノ元ニ流ルル風

 

 

 

 

 

 

「文臣さんが、ですか?」

「ええ。残業とは聞いていなかったのに・・・」

「啓子さん。会社には連絡を?」

「もし忙しいのならこちらから掛けるのは迷惑でしょうから・・・」

「そうですか」

「最近特に物騒だから心配で」

「特に物騒?」

首を傾げる志貴に啓子は「ええ」と頷くと志貴に早く中に入るように促す。

「しかし、都古ちゃんまでこの時間に食事というのは拙くないですか?」

「都古が志貴さんと一緒に食べると言って待っているのですよ」

「よく分かりませんね」

「あの子はお兄ちゃん子ですよ」

クスクスと笑う啓子。

よほど志貴の反応がおもしろかったのか、啓子はしばらくクスクスと笑い続けていた。

が、

「啓子さん。明日のことですけど」

志貴のその一言で啓子の雰囲気が変わった。

「―――志貴さん」

「大丈夫です。こちらから何かすることはありません。まあ、追い出される可能性はありますけど」

「・・・ごめんなさい」

啓子は今にも泣きそうな顔で志貴をみる。

志貴の遠野行きを強く反対していた啓子だったが、圧力に屈した形で遠野に戻る事を認めた。

有間は遠野家の外戚で、遠野から最も離れた存在であるにも関わらず圧力に屈したとはどういうことか。

養父である有間文臣が急に昇進し、同時に大きなプロジェクトを任されたのだ。

プロジェクトの発注主は遠野系列の会社。

これが何を意味するか啓子はすぐに分かった。

会社を辞めるという選択肢を選べるほど蓄えに余裕はなく、また、説得できるはずもない。更に辞めたとしてもすぐ新しい職に就けるという保証もない。

手詰まりだった。

「文臣さんは気づいていません。良いんですよ」

「でも、志貴さんが」

「俺をここまで養ってもらった恩を返さなければと思っていたんです。ちょうどよかったんですよ」

恩は返す。

しかし、遠野から追い出されたり、自ら出ていこうとした時に遠野の人間―――遠野秋葉と対立した場合の対策を考えなければならない志貴は頭が痛かった。

志貴個人で何かできるわけもなく、アルバイトをしているとは言ってもそこまで大きな金額を持っているわけでもない。

そんな思考を表情には出さず、志貴は苦笑する。

「文臣さんはいつ帰ってくるんでしょうね・・・お腹が空きましたよ」

「―――そうですね。文臣さんには申し訳ないですけど、都古もそのまま眠ってしまいそうですから私達だけでいただきましょう」

啓子は志貴がわざと話を逸らした事に何か言おうとしたが、無駄だとわかり、志貴の提案に乗る事にした。

と、

「ただいま〜」

タイミングよく文臣が帰宅した。